妙法蓮華経如来寿量品にょらいじゅりょうほん第十六


  すると釈尊は、諸々もろもろの菩薩、及び一切の大衆に向かって述べられました。

   皆 まさに如来の真実の言葉を聴きなさい。
   その秘密神通の力を。

   すべての者は、私が釈迦族の王宮を出た後、
   行を修め、阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいを得たと思っています。

   しかるに善男子ぜんなんし
   われ じつに成仏してより已来このかた
   無量無辺百千万億那由他劫なゆたこうなり

   例えば、五百千万億那由他阿僧祇なゆたあそうぎの三千大千世界をすべて塵として
   東方五百千万億那由他阿僧祇なゆたあそうぎの国を過ぎて後、
   一塵いちじんを落としていったとしましょう。
   この塵が無くなった時、いくつの国を越えるのであろう。
   だれかその国の数を測れる者はいますか、弥勒よ。

  弥勒菩薩は答えました。
  「いえ、そのような数は無量無辺にして心力しんりきが及ぶところではありません。

   もろもろ善男子ぜんなんし
   今 まさ分明ふんみょう汝等なんだち宣語せんごすべし

   これらの国一つを一劫としましょう。
   私が、成仏したのは、実にそれより百千万億阿僧祇劫あそうぎこう以前のことなのです。
   それ以来、常にこの娑婆世界に在って、法を説いてきました。
   また 他の百千万億阿僧祇あそうぎの国々に於いても、衆生を導いてきたのです。
   もし、衆生が我がもとに来たならば、佛眼ぶつげんによって、その衆生の利根りこんを観じ
   すべきところしたがって、種々の方便を説き導くことでしょう。
   佛が説く経典は皆、真実にして、虚しいものなど無いのです。

   所以ゆえいかん、    如来は如實にょじつに三界の相を知見ちけん
   生死しょうじしは退たいしはしゅつあることなく
   また在世及び滅度めつどの者なし
   じつあらず。に非ず。にょに非ず。に非ず。
   三界の三界を見るがごとくならず
   かくごときの事、如来あきらかに見て錯謬しゃくみょうあることなし

   佛の寿命は未だ尽きず、先の数に?したものです。
   しかし滅度めつどを現し、それによって衆生を導きます。
   なぜならば、もし佛がひさしく世にいるならば、徳薄き人々は
   五欲をむさぼり、うやまいの心を起こさないことでしょう。
   それ故に、佛は方便をもって説くのです。

   例えば、あるところに腕の立つ良医りょういがいたとしましょう。
   彼には、十・二十・乃至ないし百人の子供がいました。
   ある時、良医が遠くの国に出かけている間に
   その子供たちは、誤って毒薬を飲んでしまったのです。
   しばらくすると彼らは苦しみ始め、やがて父が帰ってきた時には苦しみの為
   心を失っている者もいたほどでした。
   するとそれを見た父は、すぐに味良き薬を作り、子に与えたのです。
   心穏やかな者は、それを飲みやまい癒えたのですが、
   心を失っている者たちは、苦しみつつも、薬を飲もうとはしませんでした。
   その姿を見た父は、このように思ったのです。

   の子?あわれむべし。
   毒にやぶられて、心、みな顛倒てんどうせり
   われを見て、喜んで救療くりゅう求索もとむといえど
   かくごとき好き薬を、しかあえ?ふくせず
   われまさに、方便をもうけて、の薬を?ふくせしむべし

  そして次のように言いました。

   「お前たち、私は年老いていつ死ぬかわからない。
   この良き薬はここに置いておくので 飲もうと思うなら、飲みなさい。
   そうして他国に赴き、使いを出して、父が亡くなった と伝えさせました。
   それを聞いた子供らは大いに悲しんだのです。
   やがて彼らは、父の優しさを思い出し、正気を取り戻してきました。
   そして、その味良き薬を手に取ったのです。
   すぐにやまいは癒えました。
   そうして父は家に帰ったのです。

   善き者たちよ、この良医の妄語もうごを責める者がいるであろうか。
   佛もこのようにあるのです。
   成仏してより無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫なゆたあそうぎこう
   衆生の為に方便力ほうべんりきによって滅度めつどすると言うのです。
   これを虚妄こもうとがとして責める者はいないであろう。

  その時に世尊は重ねてを述べられました。

   私が佛となり得たのは、はるはるかな昔のことである。
   それ以来 私は法を説き続け、この世のものたちを導いてきた。
   あと幾許いくばくも経たない内に私はこの生を終えるであろう。
   だが、それはこの世を離れるのではなく、その後もこの世を見守る為である。
   もし 善きものたちが私の姿を見ようと一心に求めるならば、
   私とこの場にいるものたちは再び霊鷲山りょうじゅせんに姿を顕わすであろう。
   そして、「私は常に此にあって法を説いている。
   その法を聞きたいと願うものがいる処、
   如何なる処に於いても姿を顕わすであろう。と語るのだ。
   世の人々に私の姿は見えず、彼らは悩み 苦しみの海に溺れているかのようである。
   しかし、その心が渇望かつぼうする時、私は顕れ法を説くであろう。
   世のものたちがこの世界を見て 焼け尽きていると感じる時でも、
   私の国土は天から華々が降り注ぎ、様々な伎楽ぎがくが奏でられ、
   神々や人の楽しき処なのである。
   だが、佛や如来のみなも聞かず苦しんでいるものたちにとって、
   この世は怖しく無数の悲しみが満ちているものなのだ。
   しかし 柔和にゅうわにして素直なるものは私の姿を見て法を聞くであろう。
   私は過去幾億千いくおくせんという行を修し、このような寿じゅちからを得たのである。
   佛の言葉は偽りではないのだ。私は世の父、諸々の苦しみを救うものである。
   今 私の姿が此にあるが故に 無知なるものたちはおごり、
   欲に溺れて悪道へと歩むであろう。
   それ故にあとわずかでこの仮の生を終えようと思う。
   私は全てのものたちが何を為し、何を為していないかを知って、
   それに従って常に無数の法を説いている。
   そして私はいつも願っていることがある。
   すべてのものを導いて、速く佛となってもらいたい、と。

   われ 佛を得てよりこのかたたるところもろもろ劫数こうしゅ
   無量百千万むりょうひゃくせんまん億載阿僧祇おくさいあそうぎなり
   常に法を説いて、無数億むしゅおくの衆生を教化して佛道に入らしむ 
   しかしよりこのかた 無量劫むりょうこうなり
   衆生をせんが為の故に方便して、涅槃ねはんを現ず
   しかじつには滅度めつどせず 常にここじゅうして法を説く
   われ 常にここじゅうすれども もろもろの神通力をもっ
   顛倒てんどうの衆生をして、近しといえどしかも見ざらしむ
   しゅ滅度めつどを見て、広く舎利しゃりを供養し
   ことごとく皆 恋慕れんぼいだいて、渇仰かつごうの心をしょう
   衆生 すで信伏しんぷくし、質直しちじきにしてこころ柔軟にゅうなん
   一心に佛を見たてまつらんと欲して、みづか身命しんみょうおしまず
   時にわれ及び衆僧しゅそうとも霊鷲山りょうじゅせん
   われ 時に衆生に語る、常にここにあってめっせず
   方便力ほうべんりきもっての故に、滅上滅めつふめつありとげん
   餘国よこくに衆生の、恭敬くぎょう信楽しんぎょうする者あれば
   われまたの中において、為に無上むじょうの法を説く
   汝等なんだち れを聞かずして、ただわれ滅度めつどすとおもえり
   われもろもろの衆生を見れば、苦海くかい没在もつざいせり
   かるがゆえに為に身をげんぜずして、れをして渇仰かつごうしょ うぜしむ
   の心恋慕れんぼするにって、すなわでて為に法を説く
   神通力、かくごとし、阿僧祇劫あそうぎこうおい
   常に霊鷲山りょうじゅせんおよもろもろ住処じゅうしょにあり
   衆生劫しゅじょうこうきて、大火に焼かるると見る時も
   がこの安穏あんのんにして,天人てんにん 常に充満じゅうまんせり
   園林おんりんもろもろ堂閣どうかく種種しゅじゅたからをもって荘厳しょうごん
   宝樹ほうじゅ 華果けか多くして 衆生の遊楽ゆうらくするところなり
   諸天しょてん 天鼓てんくって、常にもろもろ伎楽ぎがく
   曼陀羅華まんだらけらして、佛及び大衆だいしゅさん
   浄土じょうどやぶれざるに、しかしゅは焼けきて
   憂怖うふ もろもろ苦悩くのうかくごとことごと充満じゅうまんせりと見る
   もろもろの罪の衆生は、悪業あくごう因縁いんねんもっ
   阿僧祇劫あそうぎこうぐれども、三寶さんぽうみなを聞かず
   もろもろあらゆる功徳くどくしゅし、柔和質直にゅうわしちじきなる者は
   すなわち皆 我が身、ここにあって法を説くと見る
   或時あるときしゅの為に、佛壽ぶつじゅ無量なりと説く
   ひさしくあっていまし佛を見たてまつる者には、為に佛にはがたしと説く
   智力ちりきかくごとし、慧光えこうてらすこと無量に
   壽命無数劫じゅみょうむしゅこう、久しくごうしゅしてところなり
   汝等なんだち 智あらん者 ここおいう たがいをしょうずることなかれ
   まさに断じてながく尽きしむべし、佛語ぶつごじ つにしてむなしからず
   き方便をもって 狂子おうじせ んが為の故に
   じつにはれどもしかも死すというに、虚妄こもうを説くものなきがごと
   われまたれ世の父、もろもろ苦患くげんを救う者なり
   凡夫ぼんぷ顛倒てんどうせるをもって、じつにはれどもしかめっすと言う
   常にわれを見るをもっての故に しか?恣きょうしの心をしょう
   放逸ほういつにして五欲にじゃくし 悪道の中にちなん
   われ 常に衆生の、どうぎょうどうぎょうぜざるを知って
   すべきところしたがって 為に種種しゅじゅの法を説く
   つねみずかねんす、何をもってか衆生をして
   無上道むじょうどうり、すみやかに佛身ぶっ しん成就じょうじゅすることをせしめんと


    (妙法蓮華経分別功徳品第十七へ続く)

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